職場の優待券が年度末期限ということで、シーサイドホテル舞子ビラの料亭「有栖川」でランチ。
以下、Wikipediaのパクリ。
シーサイドホテル舞子ビラの概要
舞子公園の北東、明石海峡を望むことができる丘の上に位置する。
本館(1998年竣工、14階建て)と緑風館(1981年竣工、8階建)で構成されている。
古くは有栖川宮の別邸。その後、住友家の私邸。1966年(昭和41年)に神戸市が購入し、宿泊施設として営業。
シーサイドホテル舞子ビラの沿革
有栖川宮熾仁親王が1888年(明治21年)に現在地の舞子柏山(烏崎[からさき])に避暑で来訪。ここからの景勝をいたく気に入った熾仁親王はこの地を買い上げ、1893年(明治26年)に舞子別邸の建設を開始した。
別邸は1894年(明治27年)に竣工するが、同年暮れに熾仁親王は広島大本営で腸チフスを発症し、この別邸で静養。明けて1895年(明治28年)1月、熾仁親王はこの別邸で薨去した。
熾仁親王の跡を継いだ弟の威仁親王も、晩年はこの別邸で病気療養を行い、大正2年(1913年)にこの地で薨去した。
1917年(大正6年)に住友家へ払い下げられ、迎賓館となる。
1920年(大正9年)に史蹟名勝記念物指定を受ける。
明治天皇は1900年(明治33年)、1902年(明治35年)、1908年(明治41年)と宿泊。
昭和天皇も皇太子時代の1916年(大正5年)に宿泊。さらに、皇后と1954年(昭和29年)に宿泊した。
終戦直後はGHQに接収され、館内は洋式に改められる。
1950年(昭和25年)に接収解除後、ホテルトウキョウへ売却。
1959年(昭和34年)11月にオリエンタルホテルが買収し、「オリエンタルホテル舞子ビラ」とし経営した。
1966年(昭和41年)に神戸市が買収し、原型の木造の家屋は破壊され「市民いこいの家 舞子ビラ」となり、市民プールや鉄筋の宿泊施設を建設した。
1981年(昭和56年)には8階建ての別館(現:緑風館)も建設された。
1995年(平成6年)の阪神・淡路大震災では既存施設が損壊被害を受け、新本館の建設と同時に別館の修繕を進めることとなった。しかし、神戸市が市債を発行して直接事業を行うことは財政上困難であったため、1996年(平成8年)に以下のスキームを構築した。
- 神戸市は対象不動産について、さくら信託銀行(現:三井住友信託銀行)を代表受託者として組成した「神戸市舞子ビラ土地信託」へ30年間(後に45年間に延長)の土地信託を行う。
- 信託銀行団は銀行から融資を受け、新本館の建設及び別館の修繕を行う。
- 神戸市が約25%出資する第三セクターの神戸マリンホテルズ株式会社が信託銀行団から土地建物を賃借し、ホテルを経営する。
- 賃借料をもとに信託銀行団は銀行融資を返済し、信託報酬を差し引いた残余があれば神戸市に配当する。
しかし、第三セクター会社によるホテル経営は不振が続き、賃借料の減額、神戸市による信託銀行団に対する損失補償、第三セクター会社への融資などの支援策を打ち出したが、経営は好転しなかった。
神戸市が設置した「外郭団体経営評価委員会」の2008年度報告(2009年4月公表)では、海上アクセスと並び『事業スキームを含めた抜本的解決策の検討を早急にお願いしたい』との提言が付された。
2011年、神戸市は有識者・学識経験者による「舞子ビラ事業あり方検討委員会」を設置。
2012年2月、「将来負担のリスクを避けるため信託スキームを解消する」、「信託銀行団が受けた銀行融資への補償を実施する」、「ホテル事業の一定期間存続を前提に事業を民間へ売却する」などの提言が出された。
これを受けて神戸市は新たな事業主体の公募を実施、明治海運株式会社を選定し、建物を24億円で売却、土地は約1150万円/月で賃貸することとなった。
ホテル経営は明治海運の100%子会社であるサフィールリゾート株式会社が、神戸マリンホテルズ株式会社から事業譲渡を受けた。信託スキームの解消にあたって、約101億円の補償を行っている。
2013年4月1日より新体制での営業を開始、現在に至っている。
なお、神戸マリンホテルズ株式会社については2013年6月17日に会社解散を公告するとともに、特別清算された。