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からの個人的メモである。
米空軍戦史研究所(Air Force Historical Research Center, Maxwell Air Force Base, AL36112)
攻撃部隊名「509th Composite Group (略称509GP)」『Tactical Mission Report』
第20航空軍編成以来の、対日爆撃作戦の全報告書12冊「Special Bombing Mission」
アグニュー フィルムからわかる飛行経路
10:55ころ、爆撃隊はレーダー航法によって橘湾上空を正確に長崎へ接近していた。
そのまま進めば、ファットマンは、レーダー照準によって間違いなく長崎港東岸の市街地に落下するはずであった。
しかし、そのレーダー爆撃は作戦命令で禁止されていて、目視爆撃だけしか認められていなかったのである。
爆撃隊が長崎半島の東岸上空に達し、雲の切れ間に浦上を発見した時、命令違反の汚名を着る覚悟でいた2人の指揮官は、ためらうことなく2次目標「長崎都市部」のレーダー爆撃を取りやめ、目標でも何でもない「浦上工業地区」の目視爆撃を敢行することにした。
まずボックスカーが甑岩上空で右旋回して、浦上方向へ北西進した。
グレートアーチストは、ボックスカーに追随せず、ラジオゾンデ3個を愛宕山上空に投下した後、左旋回して熊ヶ峰方向へ南進した。
ボックスカーは、桜馬場町付近上空から松山町の陸上競技場を目がけてファットマンを投下した後、左旋回して長崎港上空を縦断し、長崎半島の西岸沿いに南西進した。
両機の間隔は、市街地をはさんで3kmも開いた。
(中略)
『長崎市制六十五年史』(後編)第五部第一章第二節及び『長崎原爆戦災誌』第二部第一章第三節に登載されている原爆投下機の長崎北東方からの侵入報は、誤報もしくは虚報である。
長崎原爆は投下ではなく投棄である
任務報告書の本文9.c項「目標選定の理由」に、
「正確な投弾は、港の東の市街の大半と、恐らくは西岸も破壊すると信じられていた」
とあるから、照準点は浦上ではなく、長崎港東岸の市街地に置かれていたのではないか。
作戦計画の立案に参画し、任務報告書を閲覧できる立場にあったグローブス将軍は、『私が原爆計画を指揮した』の中で照準点に言及し、その位置を「長崎港東岸の市街地」と明記している。
浦上は、原爆の目標としての要件を備えていないし、三菱長崎造船所が在る西岸にも遠い。
戦果に関する報告を見ると、任務報告書の本文10.c項「任務の遂行」に「2次目標に原爆を投下した」とあり、11.b項「戦果」に「建造物地区の42.4%が壊滅した」とあるので、長崎任務は達成したと報告しているように受け取れる。
ところが、第Ⅲ部G章「攻撃の分析」では一転して「指示された照準点は爆撃手によって捕捉されず、原爆は長崎の工業地区に対して投下された」と報告している。
この意味は重大で、爆撃したのは、長崎は長崎でも「2次目標 長崎都市部」ではなく、「目標でも何でもない浦上工業地区」と言っているのである。
浦上は 「長崎都市部」の圏外である。そこに目視照準で原爆を投下したのであるから、報告書には「臨機目標に投下」と書くべきではなかったのか。
作戦命令書の発見によって初めて明らかになったことであるが、原爆任務にあっては、臨機目標は設定されなかった。原爆は指定の照準点に命中させてこそ、その戦略的威力を発揮できる爆弾であったし、臨機目標(注.投下し損ねた爆弾のごみ捨て場の意味があった)に投棄するには、余りにも高価な製品であったからである。
臨機目標が示されていなかったために、報告書は、原爆の投下目標について書き様がなく、
「浦上工業地区≒長崎市の一部≒2次目標の一部≒2次目標」に原爆を投下した
とこじつけざるをえなかったと考えられる。
開戦当時、浦上には三菱の製鋼所、魚雷工場の外に、医大と付属病院、刑務所等があり、市街電車は大橋が終点で、大橋から北方は人家もまばらに田畑が広がっていた。
原爆は、大橋工場と浦上工場のほぼ中間点に当たる松山町171番地の上空490mで爆発した。元々、両工場とも通常爆撃の個別目標ではあったが、両工場の所在する浦上自体が原爆の目標圏外であったのだから、この辺りに原爆の照準点が設定されたはずがない。
すなわち、浦上を壊滅させた原爆は、第20航空軍の作戦命令(それは、ワシントンの意図)とは関係無しに、恣意的に投棄されたのである。
もし、ボックスカーが、浦上へ転進することなく甑岩上空を西進し続け、レーダー照準で原爆を投下したとすると、爆発は森崎上空で起こり、長崎の中心的市街、港湾一帯、造船諸工場は壊滅し、15万人を下らない死者が出たと考えられる。実は、それこそが爆撃隊に与えられていた任務であった。
爆撃手が最終的にねらいを付けたのは、作戦命令の照準点には程遠い松山町の陸上競技場である。2人の指揮官が、文字通り的外れの原爆投下を決断したのは、それでもそこそこの戦果は期待できるとの判断が働いたからであろう。
ファットマンをテニアンに持って帰るには、その決断の時機は、小倉上空でなければならなかった。長崎で決断して読谷へ向かえば、ボックスカーは途中で燃料が切れ、不時着水しなければならなかった。
原爆目標に三大軍港「横須賀、呉、佐世保」が選定されなかった点や、人口集中の度合いが重視された点などを考え合わせると、原爆投下作戦の目的の根底には、原爆を市街地上空で爆発させることこそ最も緊要とする戦略要求があったと見るべきであろう。
# 広島の原爆も長崎の原爆も、戦後を見越したアメリカによる生体実験であり戦争犯罪であることがわかる。
長崎原爆
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執筆者:osakanamanbow