六甲山自然案内人の会 平成22年7月度定例観察会報告書
http://rokkosan.gotohp.jp/y2010/1007.pdf
布引の滝
紀州那智の滝、日光華厳の滝とともに日本三大神滝のひとつ。
・平安時代の頃から名称が知れわたり、数多くの貴族や歌人たちがこの地を訪れ、多くの名歌が詠まれた。
・明治の初め、英人マーレーの旅行案内記で世界に紹介され、神戸を訪れる外国人たちの第一の観光地になる。
・ちなみに紀州那智の滝は鎌倉時代、日光華厳の滝は江戸時代に知られるようになったと云われている。
・六甲山系のかわうそ池を源流とし、摩耶山・再度山の谷水を集めトゥエンティークロス・布引貯水池を経て谷間に流れ込む。
・落差は上から雄滝(43m)、夫婦滝(6m)、鼓滝(9m)、雌滝(19m)の全長約200mの距離で、この4つの滝を総称して布引の滝という。
・「五本松隠れ滝」は平成19年6月に命名された新たな滝として布引貯水池が満水時に現れる。
・雄滝の落ち口の上流に5つの甌穴(おうけつ)がある。上から滝姫宮(深さ6.6m)、白竜宮(6.6m)、白鬚宮(6.6m)、白滝宮(5.5m)、五滝宮(1.5m)。
・これは急流を流れ落ちる水と岩石が、数十万年を経て作り上げた世界的にもまれな自然現象である事が、昭和10年に専門家の実地調査で認証されている。
・江戸時代までは、現在の様な雌滝から雄滝までの回遊路はなく、滝の東に位置する砂子山に登りさらに険しい山路を登って茶屋のある辺りからの見物だった。
砂子山
・砂子橋の北東隣の小山。当時は松の木が茂る山だった。
・700年頃、役の小角がこの滝で修業をし、砂子山に滝勝寺を建立。時代とともに衰退し、810年頃空海が七堂伽藍の他、多くの末寺を建て再興し、後鳥羽院が布引の滝の歌会を催すなど、都人がこの滝勝寺に滞在して布引の滝の見物をするなど栄えたが、明治22年の大火で七堂伽藍を焼失し他地へうつる。その跡に、明治38年、川崎正蔵(川崎造船所創設者)が徳光院を建立し菩提寺とする。(現在は他人に移る)
・生田神社は最初はこの砂子山に祀られていた。神功皇后が新羅遠征の帰路、雅日女尊(わかひるめのみこと))を祀ったのが、この砂子山であると云われる。延歴18年(799)4月の大山津波のため、洪水で殿舎を壊され、刀禰七太夫(二宮神社宮司)がご神体を納める場所を探して建てたのが現在の生田神社。松に囲まれた土地が洪水で流されたことから、松が大嫌いな神様で、境内には松の木は一本もない。その為、生田神社ではお正月の門松は杉盛、以前にあった能楽堂の背景まで老松の代わりに杉木を描く等、徹底して松の木を嫌っている。又、この山に伊勢神宮と神武天皇陵の遥拝所を設ける事を目的にして布引遊園地が開発される事になる。
布引遊園地
・明治5年5月に、居留地の外国人との間で商売をしていた貿易関係業者の団体が完成させる。
*明治4年に居留地のドイツ領事が布引の滝付近の景観に目を付け、高殿の建設許可を兵庫県に申請する。
*居留地の外国人に布引の地を占領されることを危惧した貿易関係業者の団体は、砂子山に伊勢神宮と神武天皇陵の遥拝所を設ける企画を県に出願。県は明治政府へ上申するが許可は下りなかった。
*2ヶ月後、「某国領事は密かに工事を始めていて、キリスト教が広まっており、其の布教を援助する日本人を逮捕した」旨を書き加えて再上申したところ、折り返し許可をもらう。
(当時は、祭政一致令のもとに、廃仏棄釈だけでなく神道以外の宗教を抑制するための明治政府の一策であったことがわかる。)
・貿易関係業者は【花園社】を組織して大遊園地が完成。
*砂子山の遥拝所をつくる。
*展望台をつくる。
*布引の滝をめぐり、展望台までの回遊路や滝見物の朱塗りの橋をつくる。
*滝の回遊路わきに「布引三十六歌碑」と名付けて布引の滝に因む歌碑を建立。
*麓一帯には花園を、要所には飲食店、茶店、土産物店などを作り、沿道には提灯を備える。
・麓には(今の新幹線新神戸駅辺り)炭酸温泉が湧き出ていて、温泉付きお食事処もできる。滝見物、遊園地、温泉、食事など家族連れが人力車でやってきて、贅沢な楽しみの場所として大盛況だった。
・次第に暴利をむさぼる店等が増え、悪評も広まり、布引遊園地の客足が遠のき、花園社は経営困難におちいり数年で解散に至る。その後持ち主が転々とし、明治33年に布引の貯水池の建造に依って滝の水量が激減し魅力がそがれて行く。
・明治28年、英国の貿易商、A・H・グルームが六甲山の東に別荘を建て、明治36年にはゴルフ場をつくるなどの、六甲山の開発とブームは東方面にシフトしていく事になる。
資料
「布引三十六歌碑の案内」松原壽一著
「むかしの神戸」和田克巳著
写真集「神戸の100年」