壊滅的な打撃を受けた沿岸部は高地移転を選択するしかない。
でなければ100年毎の地震津波ごとに集落全滅させるしかない。
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「日本一の防潮堤」無残 想定外の大津波、住民呆然 <asahi.com 2011年3月20日14時52分>を添削
「日本一の防潮堤」「万里の長城」――。住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。「今後、どうやって津波を防いだらいいのか」。住民たちは呆然としている。
「津波は堤防の倍くらい高かった」。防潮堤の近くに住んでいた漁師は顔をこわばらせて振り返った。2011/03/11の地震直後、いったん堤防に避難した。だが、山のような津波が海の向こうから押し寄せてくるのが見えたため、急いで丘に駆け上り、難を逃れた。自宅は押し流されて跡形もない。
この漁師は「防潮堤は安心のよりどころだった。『防潮堤があるから』と逃げ遅れた人も多かったのではないか。堤をもっと高くしないと、これでは暮らしていけない」。
約4400人が暮らす田老地区は「津波太郎」との異名がある。1896(明治29)年の明治三陸津波で1859人が、1933(昭和8)年の昭和三陸津波で911人が命を奪われた。
防潮堤は、昭和三陸津波襲来の1934年に整備が始まった。地元の漁師らによると、当時の田老村は、高所移転か防潮堤建設を検討。結局、海に近い所に住みたいとの村民の要望や代替地の不足から防潮堤建設を決断し、当初は田老村単独で整備を始めた。工事は中断を挟みながら段階的に進み、半世紀近く後の1978年に完成。総工事費は1980年の貨幣価値に換算して約50億円に上る。
こうして出来上がった防潮堤は、海寄りと内寄りの二重の構造。高さは約10m、上辺の幅約3m、総延長約2.4kmと、まるで城壁のようだ。岩手県によると、二重に張り巡らされた防潮堤は世界にも類はない。総延長も全国最大規模という。1960年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出たが、田老地区では死者はいなかった。日本一の防潮堤として、海外からも研究者が視察に訪れるほどだった。
しかし、今回の津波は二つの防潮堤をやすやすと乗り越えた。海寄りの防潮堤は約500mにわたって倒壊し、所々にコンクリートの残骸が転がっていた。隣近所の多数の知人が行方不明になったという男性は「津波の前では、頼みの防潮堤がおもちゃのように見えた。こんな津波を経験して、このまま田老で暮らせるのかどうか分からない」と泣きながら話した。
今後の津波対策をどうするのか。別の漁師は「漁師なら海の近くに住みたいと考えるだろうが、やはり高台の方に移住すべきではないか」と話す。
宮古市は津波防災都市を宣言している。宮古市地域振興課長の鳥居利夫(59)は「防潮堤は、これまで経験した大津波を想定して整備された。だが、今回は想定外だった。今後、どう津波対策を立てるのか。今のところ思いつかない」と肩を落とす。
高台への集落移転を提唱する2.5 宮古市の「日本一の防潮堤」無残
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執筆者:osakanamanbow