今回の震災復興に当たり、高台への集落移転を提唱する。
↓参考資料↓
中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」のページ
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/
「過去の災害に学ぶ」第4回「1896年明治三陸地震津波」
<広報「ぼうさい」>No.28(2005年7月号),18~19ページ
被災地復興とその問題点
津波による壊滅的な被害を受けた三陸の村々は、どのように立ち直っていったのか。
同じ悲劇を二度と繰り返さぬよう、人々は集落、家の再建に当たり、より高地に住むことを選択した。村の良識ある指導者により高地への移住が提案され、津波の直後は多くの人々が高地に移り住むことになった。しかし、時が経つにつれ、人々は日常生活の利便性を優先して海辺に戻ってしまうことになり、明治の津波災害の37年後の昭和8年(1933年)に、この地を再び大津波が襲うことになる。このときに明暗を分けたのが集落の高地移転の成否であった。
ここでは、高地移転が成功した例と不幸にして失敗した事例を紹介する。
明治三陸大津波で204名の死亡者を出した岩手県吉浜村では、当時の村長らが山麓の高地へ移転する計画を立案した。まず低地にあった道路を山腹へ変更し、もともとあった集落を道路に沿って分散して配置するようにした。昭和8年の昭和三陸津波による流失家屋数は、移転後に新たに低地に建った10戸と移転位置の悪かった2戸のみであり、高地移転は成功したと言える。津波が増幅しやすいリアス式海岸の湾奥にありながら被害を免れたのは、先覚者の的確な指導のもと村人全員が協力しあって難事業である集落移動を完了できたためである。
一方、吉浜村のすぐ北に位置する唐丹湾の湾奥の唐丹村(小白浜地区、本郷地区)でも、明治の津波災害では総戸数290のうち272戸が流失し、人口1,502人中1,244人が亡くなるという壊滅的な被害を受けた。唐丹村の収入役らが中心となり、山腹に宅地を造成して村人たちに移転を勧めた。しかし、一度は移転した村人たちも、豊漁が裏目となり、浜作業などの日常の利便性を求めて徐々に元の海浜部に移り住むようになる。さらに不運なことに、大正2年に発生した山火事により、山腹に移転した集落の9割が焼失するという被害を機に、最終的には元の場所に集落が再形成されてしまった。その結果、昭和8年の津波で再び260戸あった集落のうち208戸が流失・倒壊するという悲劇が繰り返されてしまった。
同じ時期に移転した2つの村でなぜこれほど対照的な結果になったのか。
唐丹村では山火事に見舞われたという不運はあるが、その原因は以下の8項目に整理される。
(1)移転した場所から海までの距離が遠すぎたこと
(2)移転した先で飲料水が不足したこと
(3)交通路が不便であったこと
(4)先祖伝来の土地に対する執着心
(5)豊漁が契機となり、海辺の仮小屋を本宅とするようになったこと
(6)大規模火災が発生し、集落が焼失してしまったこと(唐丹村)
(7)仮小屋が定住家屋に発展したこと
(8)主に山間部から津波未経験者が移住してきたこと
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以上
高台への集落移転を提唱する。
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執筆者:osakanamanbow