明石教育研究所便り
http://www.edi.akashi.hyogo.jp/kyoiku/oshirase/upfile/H25kenkyuusyodayori_54.pdf
大久保小学校 ― 地名「大久保」から。【地名の語源】明石藩主大久保加賀守季任の名にあやかった。
大久保加賀守季任とは、大久保忠職のことのようだ。
大久保忠職は、大久保忠隣の嫡孫。
大久保忠隣は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。相模小田原藩の初代藩主。2代将軍秀忠時代に老中となったが、3年ほどで失脚している。
大久保忠隣が明石藩主だったのは10年ほど。その間にあちこちで新田開発を行なった。
明石藩は旧明石郡を統治。現在の明石市の大部分(二見町以外)、神戸市西区、神戸市垂水区、神戸市須磨区の北須磨ニュータウンの一部にあたる。
明治の市町村制施行時には、明石町、林崎村、魚住村、大久保村、垂水村、伊川谷村、玉津村、櫨谷村、押部谷村、平野村、神出村、岩岡村の1町11村で構成した。
http://www.city.kobe.lg.jp/business/promotion/industry/agriculture/img/ikawa-zenkaisimoH13.pdf
前開下 里づくり計画
には、
近世の前開地区
前開地区は,門前村,東皆発村(ひがしかいほつむら),下皆発村(しもかいほつむら)からなり,前開下は下皆発村と呼ばれていた。播磨国明石郡のうち,明石川伊川上流域。
正保元年開発村が東皆発村・下皆発村に分村して成立。江戸期~明治10年頃の村名。明治10年頃前開村の一部となる。
前開の名前
太山寺の寺域から太山寺村ができ,それは門前にあったことから後に「門前村」と改められ,門前に接して開発という土地があった。正保元年(1644)明石城主・大久保加賀守季任が開発を東と下に分けて東開発村・下開発村と書いたが,後の文書に皆発の文字があてがわれた。今の「前開」は,明治になって門前村と,この開発村から一字ずつとって合わせたものである。
とある。