可美村(かみむら)は静岡県浜名郡に存在した村。
1991(平成3)年5月1日に浜松市に編入合併して消滅した。
もともとは、1889(明治22)年の町村制施行に伴い発足した「浅場村」が由来。
発足時の大字は、浅田・伊場・海老塚・東鴨江・明神野・東明神野・増楽・若林・東若林。
村名の由来は、当時大きかった地区の「浅田」と「伊場」から1文字ずつ採択した。
1908(明治41)年に、浅田・伊場・海老塚・東鴨江が浜松町に編入される。
1910(明治43)年に、高塚を入野村から編入する。。
1914(大正3)年に、村名を浅場村から可美村に変更。村名の由来は「美しかる可(べ)き村」の瑞祥名。
1949(昭和24)年に、明神野・東明神野が浜松市に編入される。
これから先は消滅時まで、高塚、増楽、若林、東若林の4地区で構成された、周りを完全に浜松市に囲まれた村であった。
現在の浜松市南区高塚町、増楽町、若林町、東若林町の区域である。
↑ここまではWikipediaの記事をベースに、自分の情報を加味して記載した。
さて、この可美村だが、正直、浜松市との合併はあまり考えていなかった。
スズキ自動車の本社が高塚にある。
関連工場もあちこちにある。
他に大きな会社と言えば、浜松ナイガイ(内外織物)が1943(昭和18)~2004(平成15)年まで若林北にあった。
法人税収入が豊富にあったため、浜松市に囲まれていても一向に困っていなかった。
住民税にしても、面積約4km2に対して人口は約1.3万人。山も川もないので、その整備も要らず。
ただ、浜松市からの道路が可美村地内で急に途切れたりする不便はあった。
本来、浜松市との合併なんてあまり意味がなかったのだが、ある時期を境に、急速に合併に向かって動き始める。
一番の問題は、ゴミ処理場であった。
↓「浜松情報BOOK」の「総合年表」にこんな文がある。
1969(昭和44)年 湖東環境衛生施設組合の火葬場が雄踏町田畑に完成し業務を開始する
1969(昭和44)年 湖東環境衛生施設組合のゴミ処理場が可美村増楽に完成し業務を開始する
↑http://www.hamamatsu-books.jp/chronology/all/12/1.html
ちょうど東名高速道路が開通した年。
この「湖東環境衛生施設組合」は、旧浜名郡の4町村(雄踏町、舞阪町、新居町、可美村)で設立した一部事務組合である。
このゴミ処理場、可燃ごみを「燃やす」のではなくて「固めてパッキング」という手法で処理していた。
# 小学生の社会科見学で行った覚えがある。
財政問題は全然OKだったのだが、ゴミ処理場の寿命が尽き、新しいものを建てることが出来ず、可美村は浜松市との合併を選んだ。
地域住民の為には、可美公園を作り、合併記念に村民にツインバードの「巻き取り式電源延長コード」を記念品として配った。
村役場は市民サービスセンターとなった。
そんな歴史がある。
懐かしいな、ふるさと学級。
浜松市史 五
第四章 国際化の進展と新たな課題
第一節 政治・行政
第一項 二十一世紀に向けて
可美村の合併840 ~ 843 / 1229ページ
【可美村】
新市町村建設促進法の合併条項が昭和三十六年六月二十九日で失効となるため、静岡県は浜松市と可美村、雄踏町、舞阪町との合併を推進するように働き掛けた。これ以前にも静岡県は可美村に合併を勧告したが、財政事情が豊かなため、実現しなかった。昭和三十六年六月二十日に篠原村が浜松市に合併、ついに可美村は浜松市に取り囲まれる状態となった。こうしたことから昭和三十七年十一月には新産業都市建設促進法(新産法)の指定に関連して西遠地域の開発では可美村抜きではことが進展しないと合併に向けて話し合いを持ったが、可美村側は拒否、昭和三十八年には中央卸売市場の敷地確保や国鉄浜松駅の客貨分離(西浜松駅の建設)でも可美村の協力が不可欠とのことで合併を呼び掛けたが、可美村はまたも時期尚早の立場を崩さなかった。
【ごみ処理 屎尿処理 鉄化石 合併は不可欠】
昭和四十年代に入ると、財政力の豊かな可美村、舞阪町、雄踏町の一村二町はごみと屎尿処理で行き詰まりを見せ始めた。可美村ではこれまでごみ処理を浜松市の施設で焼却していたが、昭和四十二年に至って可美村は富裕な村なので村内で処理すべきとのことで、ごみの搬入を拒否された。一村二町は湖東環境衛生施設組合を昭和四十三年一月に設立、可美村はごみ、舞阪町は屎尿の処理を担当、雄踏町は火葬場の建設に当たることになった。このうち、火葬場は昭和四十四年八月、雄踏町に近代的な施設が建設されて問題は解決した。一方、可美村担当のごみ処理は焼却場の建設地が決まらず、一時は村内の畑地で廃油をかけて露天焼きをする始末であったが、昭和四十四年九月に可美村増楽に生ごみを圧縮処理する鉄化石方式の近代的な工場が完成した。この鉄化石は重量があって埋立てや建設工事にも使われたが、埋立地の減少や地下水の汚染問題が浮上して、鉄化石の処理に困るようになった。昭和五十年代には地下水汚染など二次公害防止を義務付ける法改正で、埋立てが規制されるようになり、可美・舞阪・雄踏のごみは鉄化石として遠く茨城県の適格埋立施設にまで運ばざるを得ないようになった。昭和五十三年にごみ処理の根本的な解決のため可美村増楽に建設しようとした近代的なごみ焼却場も近隣住民の反対で断念。そのため、遠く、中遠や東遠へ共同焼却場の建設を申し入れるがすべて断られる始末であった。昭和五十年代後半には鉄化石の処理だけでも莫大な負担を強いられるようになった。そして、平成元年になって茨城県で処理している会社から公害問題の発生などによりごみの搬入を半分にしたいとの申し出があった。これにより舞阪町に小型の焼却場を建設(平成二年六月完成)したり、湖西市に焼却を依頼するなど様々な方法をとってごみ問題の処理に当たった。屎尿の処理はもっと深刻で、昭和四十年代初めからなんと舞阪港から船に積んで遠州灘に海洋投棄することにしたのである。これは昭和五十年代まで続くがこの処理費も多額を要した。これ以降、当局は家庭や旅館、工場に浄化槽の設置を呼び掛け、さらに根本的な解決のため、公共下水道の建設に舵を切ることになる。問題はこれだけではなく、下水道や工業用水、道路など、小さな町村だけで解決できない事柄が山積するようになった。これには西遠地域が一体となって取り組むことが必要で、そのためには合併は不可欠の問題となった。可美村が浜松市への合併に動き出したのは昭和六十三年からである。この年に行った住民の意識調査では浜松市との合併について総論的な賛成(合併すべき、いずれは必要など)が六十七%を超えるまでになった。これにより平成元年五月三十日に可美村村議会に合併問題調査研究特別委員会が設置され、合併に向けて本格的な検討に入った。平成元年十二月以降、『広報かみ』は「シリーズ 合併を考える」を連載、合併の是非を村民に周知することに努めた。平成二年三月八日に開かれた可美村議会で大場賢治村長は浜松市との合併について「早期実現を図りたい」と表明、四月一日には役場に合併対策室を設置した。これより先の三月五日には栗原浜松市長が可美村との合併には適切に対応すると述べていた。平成二年七月に可美村は九回にわたって合併問題住民懇談会を開催、合併への理解と協力を求めた。九月十九日には定例村議会で合併促進決議案を賛成多数(賛成十三、反対二)で可決、翌二十日には浜松市長と市議会議長に合併協議の申し入れを行った。浜松市と可美村の合併研究協議会の第一回の会合は平成二年十月八日、以後五回にわたって合併協議項目(二十六項目)を協議して解散、十二月十五日に合併協議会が開催された。そして、全ての協議が整い、平成三年一月二十四日に栗原市長と大場村長が合併協定書に調印した。これを受けて三十日に可美村の臨時議会が開催され、浜松市との合併を賛成多数(賛成十四、反対一)で可決、同日に開かれた浜松市議会でも合併に関する議案が賛成多数で可決された。
この後、県知事へ合併を申請、県議会の議決、自治大臣への届け出が行われ、三月十九日の官報で次のように告示された。
○自治省告示第四十八号
市村の廃置分合
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第七条第一項の規定により、静岡県浜名郡可美村を廃し、その区域を浜松市に編入する旨、静岡県知事から届出があった。
右の処分は、平成三年五月一日からその効力を生ずるものとする。
平成三年三月十九日
自治大臣 吹田 愰
【可美村の合併】
こうして、可美村は四月二十五日に閉村式を行い、平成三年五月一日に浜松市に合併した。なお、昭和六十三年から平成三年までの『広報かみ』は合併に関する詳細な記録を載せていて資料的な価値が高い。これ以前の合併においては合併町村の広報紙が無かったり、ページ数が少なく、わずかに新聞報道で合併の経緯を知るしか方法が無かった。