神戸新長田に住んで早5年。
全くの偶然なのだが、震災被害激甚地区に住んでいる。
神戸新聞2011/01/17の1面に載った若松町の写真は、若松市場あたりだろうか。
空襲後を思わせる写真は衝撃的だった。
今はそんな景色があったことさえ分からないくらいの高層ビル群。コンクリートジャングル。
再開発の方向としては大間違いだと思う。
震災当時は関西におらず、関西に縁もなかった人間の思いとして、聞き流して下さい。
震災の時は、ボクは東京で2度目の大学生をしていた。
駅で朝のケツ押しバイトをしていた。
朝7時。出勤前のテレビで「関西で大きな地震」と知った。
正直、ニュースだけではそんな大きな地震とは思わなかった。
朝9時。バイトが終わったが、どうもものすごく大きな地震だったらしいことを知った。
それでも、何も思わなかった。なにしろ、関西に親しい知り合いはいない。
いや、居ることは居たんだが、当時はそこまで親しくなかった。
不思議だ。それが今こうして神戸の地に住んでいる。
関西は地震が少ない。本当に少ない。
高校生まで過ごした浜松では、数ヶ月に1回位は必ず揺れる。
むしろ東京の方が揺れるか。震度3なんて結構ざらにある。
関西に来て地震を感知したのは、ここ5年で5回くらいか。
だから、関西の人は地震の危険性は知らなかったようだ。
歴史を紐解けば、そんなことないことくらい、ものすごく良く分かるのに。
1976年の日本地震学会。
東海地震が「明日起きても不思議ではない」と発表した石橋克彦は、
当時、神戸大学理学部惑星科学科教授だった。
ものすごく皮肉だ。
浜松は東海地震の警戒区域だ。震源予想域でもある。
そこで高校生まで過ごした自分にとっては、
災害備蓄がない家は考えられない。
耐震性を考慮していない家は考えられない。
小学生の頃は、防災頭巾(頭にかぶれるクッション)を教室の椅子につけて座布団代わりにしていることが普通だった。
その後、十数年過ごした東京も、関東大震災を経験しているだけあって、それなりに備えはある。
だから、そんなボクにとって、その当時の関西の地震に対する無防備さは信じられないレベルだった。
いや、今でもそう思う。関西は余裕過ぎる。(全てにおいて)
当日に話を戻そう。
時間が経ち、だんだんと激甚被害地区の映像が入ってきた。
三宮のフラワーロード沿いの柏井ビルが、翌朝の余震で完全に横倒しになった映像を、ボクは一番強烈に覚えている。
同年3月、地下鉄サリン事件発生。
バイト先は、営団日比谷線の車両が直通してくる、東急東横線の駅だった。
勤務中に得た情報は、「霞ヶ関駅で爆発事故」という情報だった。
まかり間違えば、二次被害を受けていたかもしれない。
東京の人は、阪神淡路大震災よりも地下鉄サリンの方をよく覚えている。
震災は、淡路、明石、神戸、阪神の災害であって、
それ以外の関西は知らんぷり。ましてや他の地方では過去の歴史。
それが現状だ。
(いやもちろんいろいろと救援があったのは知っているが。)
また話がそれた。戻そう。
いろいろと縁があって、ボクは神戸にやってきた。
それもよりによって、新長田。
なにしろ震災復興再開発事業が、2011年1月現在、まだ終わっていない。
来た当初、我がマンションから見る北側一帯はまだ、区画整理が終わりつつある段階だった。
夜になると明かりがポツリポツリとしか点いていない。
正直、信じられない思いだった。
この街のために何かできないだろうか。そう思った。
神戸のためになる仕事をしたい。
それは大阪で仕事をしている今でも変わっていない。
そのチャンスを探しながら、日々腐りつつある毎日。
♪響き渡れ僕たちの歌、生まれ変わる神戸の街に♪
まとまりなく終わる。
何の因果か、この地に住みて
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執筆者:osakanamanbow