総務省 一般戦災ホームページ より
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_03.html
※は私による注釈
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浜松市における戦災の状況(静岡)
1.空襲等の概況
浜松市は、戦前から航空隊の根拠地であり(※1)、また軍需物資の生産都市であったので、27回に及ぶ爆弾、焼夷弾、機銃掃射、艦砲射撃の攻撃を受け、著名な公共建築物や公共施設、商店、住宅、工場の大部分は焼失または倒壊した。
その罹災面積は旧市内で6.90km2、罹災戸数3万1,000戸、罹災人口12万人に及んでおり、このように浜松市が全国的にみて大都市並みの被害を受けた理由には、航空機関係の軍施設、工場が多かったことの他に、米軍の本土侵入経路の目標に浜松市が存在したことも考えられている。
大空襲の後、戦災で家を失った者、疎開先を求めて移住する者で、浜松市の人口は、昭和19年当時の18万7,433人が昭和20年には8万1,437人に急減したのである。(「浜松市戦災復興誌」による)
※1:現在の航空自衛隊浜松基地
地方都市浜松の空襲被害がいかに甚大であったかは、「全国及び静岡県主要都市の空襲被害」(朝日百科)で、横浜市に続き全国第6位の被害であることがこれを如実に物語っている。
2.空襲等の状況
昭和19年12月13日午後2時26分、佐藤、相生、木戸、天神、中島に焼夷弾613発が落とされたのをはじめ、昭和20年に入ると毎月数回の空襲に襲われるようになった。昭和20年2月15日には6機のB29が爆弾21発、焼夷弾7,324発を市内の広範囲にわたって投下、145人の死者と114人の重軽傷者を出し、4月、5月にも続けて数百人の死者を出す大規模な空襲を受けている。
昭和20年6月18日午前0時10分からの浜松大空襲では、B29約100機の大編隊が全市を爆撃、浜松市は実に65,000発という莫大な数の焼夷弾によって焼き尽くされ、1万5,000余戸の家屋が全焼、1,717人の死者を出すという最も大きな被害を被ったのである。
また、昭和20年7月29日の深夜には艦艇8隻による艦砲射撃で2,000発の砲弾を浴び、170人の死者を出している。
このように27回にもおよぶ空襲と艦砲射撃などによって数多くの市民が罹災し、戦災により死亡した者は実に3,000有余人に達し、重軽傷者5,000有余人、建造物の被害は全壊、全焼、その他を合わせ3万1,000有余戸となり、全市が見渡す限りの焼け野原と化したその悲惨さは、全く目を覆うばかりであった。(被災数字は出版物によって多少の違いがあるが、ここでは浜松空襲、戦災を記録する会発行の「浜松大空襲』による。)
3.復興のあゆみ
戦災で甚大な被害を被った浜松。市街地の92%が灰燼に帰し、被害を受けた人は市民の64%に上った。
(以下省略)
浜松の戦災
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執筆者:osakanamanbow