自分たちだけの利益を考え、既存の利益にしがみつき、子孫を「また」津波に呑みこませるか、そうではない選択をするか。
被災地には、冷たくも、つらい、しかし未来につながる選択肢が突きつけられている。
答えは明快だと思うけれどね。
此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う <2011/03/30 07:22 読売新聞>を添削
「此処より下に家を建てるな」。
東日本大震災で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60mの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫の和楽 / 想へ惨禍の大津浪」
本州最東端の魚毛ヶ埼(とどがさき、魚偏に毛)灯台から南西約2km、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より~~」と戒めている。
姉吉地区は1896年の明治三陸大津波、1933年の昭和三陸大津波にと2度の大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた2011/03/11、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800mの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50m手前で止まった。地区自治会長の木村民茂(65)は「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
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【現場から】「高所移転」集落救う 岩手・大船渡 <静岡新聞 2011/03/20 07:17>を添削
岩手県南東部の大船渡市。重要港湾を擁する港町は、高さ15mを超す津波にのまれ、一面瓦礫の街と化していた。中心街から北東に約14km。同じ海岸近くにもかかわらず、津波の難を逃れた集落があった。
「明治の大津波をきっかけに、集団で高い土地に移転したんだ」。大船渡消防署の元三陸分署長の木村正継(64)が教えてくれた。「高さ7mの防波堤も幅30mの松林もみんな流された。でも集落は無事だった」
アワビやホタテの養殖で知られる宮古市三陸町吉浜の集落は、1896年の明治三陸津波で住民の2割が津波にさらわれ、壊滅状態になった。復興に際し、「また必ず大津波が来る」と確信していた当時の村長らが、高台への集落移転を強く推進した。
高所移転が奏功して、1933年の昭和三陸津波では、死者・行方不明者は住民の1割にとどまった。国と岩手県も低利融資制度を設けて本腰を入れ、当時、海岸沿いにあった周辺20町村の2200戸を対象に大規模な高所移転を図った。
吉浜では今や440戸のほとんどが、吉浜湾を臨む標高20m以上の高台に立っている。今まで集落があった土地は、ほとんどが水田に変わった。東日本大震災の津波は標高20mの所まで迫ったが、わずかに低い土地にあった3戸が津波にすくわれただけだったという。
漁師が先祖代々の土地を離れるのは、かなりの覚悟が必要だったに違いない。行政も、住民の説得、移転先の道路や水道管の整備に大苦労したという。「本当にありがたいことだよ」。泥の海と化したよその集落の惨状を思い浮かべながら、女性(65)がつぶやいた。当時の人々の英断と努力が、115年後に子孫の命を救った。
沼津市でも、沼津市南部の津波対策として高所移転の構想が持ち上がったことがある。2002年、沼津市が庁内検討部会を設けて実現を模索した。議員の関心も高かった。ところが、津波対策を目的とした宅地造成は、開発許可の対象外だった。
沼津市は静岡県に許可基準の緩和を働きかけたが、見直しには至らなかった。「規制の壁に加えて、費用負担の面からも住民の合意形成が難しかった」(沼津市消防本部の担当者)という。地元住民や市議の一部は、まだ実現を諦めていない。
津波防災に詳しい静岡大学防災総合センター准教授の牛山素行は「高所移転の効果が高いことは明らかだが、現存する建物を動かすことは極めて困難だろう」と指摘する。その上で、「でも、この(東日本大震災の)惨状を見て、何かが変わってほしいと思っている」と胸の内を明かした。
木村は言う。「何十億円も掛けて大きな防波堤を造るより、もし小さな集落で土地さえあれば、孫子のために少しずつでも高い土地に移転していった方がいいさ」
世代を超えて津波と闘い続ける三陸の人々。後世の命を守りたいといういちずな思いが、あくなき闘いの原動力になっている。
高台への集落移転を提唱する2 子孫を津波に呑みこませないという選択
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執筆者:osakanamanbow